姫路の武家屋敷
姫路はお城があまりにも有名であるが、城下町の多くは戦災で焼けてしまってあまり残ってない。
野里や船場に町家は少し残っているが、武家地は失われてしまって武家屋敷等は一軒も残っていないと聞いていた。
いちど、姫路市の教育委員会に問い合わせた時にも、残っていないという答えを聞いていた。
ところが、お城の西側の鷹匠町や北側の坊主町に、どうもそれらしい建物が4棟ほどあって、一度ちゃんと確認する必要があると思っていた。
再度、教育委員会に尋ねてもわからないという答えだったが、たまたま、平成11年編集の姫路市史にかなり詳細に記録されているのを見つけた。そこには、私が目をつけていた建物が全部写真付きで挙げられていた。これらも含めて7棟の足軽、中間屋敷が現存し、改変されていたるものが数棟残されていると記されていた。
足軽、中間屋敷を武家屋敷(侍屋敷)の範疇に含めるかということにについて、定義が存在するのかを確認できていないし、どうやら藩によって建物の規模もまちまちではあるが、有名な篠山の徒士町の「高12石3人扶持」の禄を得る下級武士の住宅よりかなり小ぶりであるが、彦根の足軽屋敷より少し大きい感じである。
私的には、彦根の足軽屋敷は武家屋敷とは言えないような気がするが、姫路のこれらは武家屋敷と言えるような気がしてしまう。
近隣では、三日月乃井野藩や山崎藩の下級武士の屋敷と同じくらいの規模のようである。
このあたりの定義についても、勉強する必要がある。
ちなみに、姫路藩の中上級の武家屋敷は一棟だけ加西市に移築されて残されているものがあるようだ。